鹿児島市加治屋町、今では中心市街地として発展し交通の利便性も高まり、近年マンションの建設が目覚ましい所となってきています。
では、藩政時代はどうだったか。この辺りは下級武士集団の住むところで、上級武士の居住地(城山、上町)から外れたところでした。ところが幕末期この地は歴史上重要な働きをした人物が数多く誕生した場所であります。
歴史小説作家司馬遼太郎いわく、「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町でやったものである」の一町が「加治屋町」です。近代社会の扉をこじ開け独立国家の礎を築いた西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎など16名の偉人と称される人たちを加治屋町偉人顕彰会では毎年「偉人祭」を開催しています。ではなぜそのような偉人たちが同時期に加治屋町から数多く輩出したのか。
その人材育成の基盤となる独特の教育システムが薩摩にはありました。郷中教育と呼ばれ「郷中」今でいえば自治会小単位の異年齢の集団訓練(教育)のシステムであります。6歳から15歳ぐらいの子どもたちの集団で、小稚児(6~10)長稚児(11~15)と呼ばれていました。これらの少年グループの指導的役割を担う二才(16~25)長老(妻帯者)でこの教育集団は成り立っていたようです。
どのような活動をしたのか。それぞれの場所に集まり武道の鍛錬、テーマに基づく討論、実践を伴う解決法を議論したといいます。この学習の精神的基盤は「理より実」を重んじることにあり、島津忠良の作成した「日新公いろは歌」に表れています。「古の道を聞いても唱えてもわが行いにせずばかいなし」は最初の歌として有名です。
では以上のような郷中教育と集成幼稚園の関係にはどんな背景があるのでしょうか。本園は大正2年上加治屋町に研志舎幼稚園として設立されました。大正15年に高見学舎との舎の合併に伴い集成幼稚園と改称しています。本年2024年で111年目を迎えていますが、当時としては幼児教育機関として画期的で鹿児島での幼児教育の先駆けとして存在価値が高かったと考えられます。戦前に学齢期にあった現在の80歳代の方々は郷中教育の精神の中で互いに切磋琢磨しながら心身を鍛えていた最後の世代であると思います。
本園は明治維新期に数々の偉人を輩出した加治屋町に最も早く誕生した幼稚園である。そこには当時の人々の願いが託されているのではないか。それは一人一人が自立した人に育って欲しい。心身ともに健全で困難を切り開く逞しい子供に育って、将来的には社会のために役立つ人となって欲しい。幼児期にその基盤を育んでいくという建学の精神があったのではないかと考えています。
このような精神のもと集成幼稚園では異年齢の交流保育、加治屋町主催の偉人祭神輿行列参加、妙円寺詣り遠行、山坂達者城山登山などを歴史的・伝統的な保育として現在まで受け継いできています。交流教育により年長児の自己肯定感を育み、年少児の自立への目覚めを促す効果を期待しています。西南戦争最後の激戦地である城山への登山は困難に負けない体力・気力を養い、年長児が年少児の安全を見守りながら一緒に行動することで弱者への思いやりの心を育む体験となっています。
また日本の伝統文化である百人一首、俳句、折り紙なども保育活動に取組んで言葉や自然の情景への関心を高めています。これらの関連で卒園記念品として「百人一首かるた」、集成学舎からは「日新公いろは歌」を贈っていただいています。